後期プランタジネット朝の王たち・ランカスター朝の王たち (7-8/92)

 (後期プランタジネット朝の王たち)

 世襲君主制において、エドワード1世にふさわしい後継者を見つけるのは無理だった。エドワード2世は当然のごとく王座から下ろされた。その息子エドワード3世は、国内は平和に保ったが、それはイングランドを外国との征服戦争に従事させてのことであった。リチャード2世は、統治にあまり向いていないこともあって、彼を巡る状況の困難さに屈服した。

 (1399-1485年、ランカスター朝の王たち)

 1399年の革命によって、ランカスター家が王座についた。ランカスター家は議会による王位継承権に基づいて統治を行ったが[1] 、上級封建貴族たちの力を制御するのは不可能だった。議会は確かに強かったが、議会の中においては、貴族院の力が下院の力にまさっていた[2] 。貴族院の平信徒メンバーは、国王の力を縮小させることに利益を抱いていた。それは、自分たちよりも下の身分の者たちを犠牲にして、自分たちの力を引き上げるためであった[3] 。王国はガバナンスが欠けているという声が日増しに高まっていった。それはヘンリー6世のような弱々しい君主が出現すると、かつてないほどまでに高まった。


[1] 議会に基づく王位継承権によって(a Parliamentary title):ヘンリー・ボリングブロックは、リチャード2世に強制的に自分に王位を譲らせ、そのことをリチャード2世の名で召集した議会で告げ、議会はそのことを認めた。そして、ヘンリー4世の時代が始まった。(ref: A. L. Brown and Henry Summerson, Henry IV [known as Henry Bolingbroke], DNB > Return and usurpation, 1399 > “Delayed by indecision — His reign had begun.”)

[2] 議会はエドワード3世の時代から2院に分かれた。

[3] それは先ほどのネコとネズミと小ネズミの話によれば、ネズミがネコの力を弱くして、小ネズミたちを思いのままに支配しようとする試みであろう。

 (参考資料)

1.ヘンリー4世の細密画

画像の出典:Wiki, Eng, ‘Henry IV of England’

画像の権利関係:The National Archives UK – Illumination of Henry IV

2.ヘンリー6世肖像画(作者不詳)

画像の出典:Wiki, Eng, ‘Henry VI of England’

画像の権利関係:Public Domain

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