(エドワード1世の議会)
議会制を敷くための素材がエドワードに整っていたことは間違いない。ノルマン王朝の王たちの「大会議」は、古代アングロ・サクソン時代の長老会議の封建的な形での焼き直しにすぎなかった。その後修正が加えられて、最終的には現代の貴族院の形をとるようになった。ウィリアム征服王とその息子たち[1] の治世の間、大会議はしばしば開催された。ヘンリー2世の時代になると、それはより頻繁に開かれるようになった。そして、その時々の重要問題の審議に参画し、王によって提案された改革案に裁可を下すようになった。ジョン王とその息子[2] が王座にあった時代、大バロン[3] たちは政府に抵抗するにおいて、自分たちより身分の低い騎士や土地の自由保有権者と団結しなければならない必要性を見出した。したがって、当時、後者の代表が前者の会議に出席し始めた。貴族と国王の闘争の終わり頃、シモン・ドゥ・モンフォールが自分の党派を支持しそうな二、三の自治都市の代表を招いた。これらの変化から得られる利点[4] を賢いエドワードが見逃すはずはなかった。彼は少しも悔いることなく、また、いかなる類いの留保もなく、すぐに己れの権力の限界を受け入れた。そして、かくして形成された議会に己の立法活動を委ねた。また、もっとも重要な行政上の措置に関して議会のアドバイスを求めた。さらに、恣意的課税という彼の権力の最後の残りも、いささかいやいやながらではあったが、議会に譲った。
[1] その息子たち:ウィリアム2世とヘンリー1世
[2] その息子:ヘンリー3世
[3] 大バロン(great baron):国王からの受封者で有力な者。
[4] これらの変化から得られる利点:つまり、国の各層の代表が集まっている。大バロン、騎士、土地の自由保有権者、自治都市の代表。ここで合意をとれば政治がやりやすくなる。また、彼らに決めさせれば彼らは自分たちで決めたことを守らなければならなくなる。(当時は一院制)
(参考資料)
![](https://gardiner2022.com/wp-content/uploads/2021/09/392px-Medieval_parliament_edward.jpg)
16世紀に描かれた、議会を主宰するエドワード1世。(今日の英国の上院そっくりである。)
画像の出典:Wiki, Eng, ‘Edward I of England’
画像の権利関係:Public Domain
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