イングランド国民の形成 (1/92)

 S. R. ガーディナー著『イングランドの歴史:ジェームス1世の即位から内乱の勃発まで:1603-1642』(全10巻)(ロンドン,1883-1884)の翻訳

第1巻

 第1章:テューダー王朝

 (449-1272年:イングランド国民の形成)[1]

 イングランドの歴史の最初の800年間は、国民形成の800年間だった。徐々に小さな部族がより大きな王国に統合され、王国どうしが統合され1つの国民が誕生した。ノルマン人による征服は民族間の対立を新たに生み出したが、それは領土的敵対を和らげた。そのあとイングランド人とノルマン人が1つに融合されていく過程が続き、それはヘンリー2世[2] の時代に完成した。そして、民族間の団結は、共通の抵抗という絆によっていっそう強められた。すなわち、ジョン王の専制とヘンリー3世の外国益に対する隷従に対する抵抗という絆である。幸いなことにイングランドは、ヘンリー3世の息子[3] のうちに完全なるイングランド人であり、かつ、単に愛国的であるばかりでなく有能な国王の姿を見出した[4]


[1]  449:アルフレッド大王によって編纂された『アングロ・サクソン年代記』によると、449年にブリトン人の王ヴォーティガンは、ピクト人との戦いにおいて助力を願うために、ゲルマン民族のヘンギストとホルサをブリタニアの地に招いたという。彼らがブリタニアの地に上陸したのが449年とされているようである。そのあと彼らは、さらにドイツの地から支援を仰ぎ、それに応えて3つの民族、すなわち、アングル族、サクソン族、ジュート族が大挙してブリタニアの地に侵入したという。彼らは各地に定住地をつくり、それはやがてより大きな王国に包摂され、王国はさらにイングランド人という1つの国民に統合されたということであろう。(ref: Wiki, Eng, ‘Hengist and Horsa’)

[2]  ヘンリー2世:イングランド国王・ノルマンディー公爵・アキテーヌ公爵・アンジュ―伯(1133生,1189没。イングランド国王在位:1154-1189)プランタジネット朝最初の王。(ref: Thomas K. Keefe, Henry II, DNB)

[3]  ヘンリー3世の息子:エドワード1世のこと。(1239生,1307没。イングランド国王在位:1272-1309)。1272年にイングランド国王として即位。(ref: Michael Prestwich, Edward I, DNB)

[4]  つまり、イングランド国民とは、まずアングロ・サクソン・ジュート民族を母体として出来上がり、それにノルマン人が加わって一体化したものとガーディナーは考えているようである。

(参考資料)

1.ブリテンの地に到着したサクソン族のヘンギストとホルサ

 『アングロ・サクソン年代記』によると、紀元449年、ブリトン人の王ヴォーティガンは、ピクト族との戦いをうまくいかせるために、戦いに強いことで有名なサクソン族をドイツから呼び寄せたという。これに応えて、サクソンの地からヘンギストとホルサ兄弟がサクソン族の兵を連れてブリテンの地に来襲したという。

 上記画像は、16世紀半ばから17世紀半ばにかけて生きたオランダ系イングランド人リチャード・ローランズ(フェルステーガン)が、その著『朽ちた知性の復元』(A Restitution of Decayed Intelligence)(1605)の中でそのことについて語り、挿絵として用いているもの。

 この画像の出典: Wiki, Eng, ‘Hengist and Horsa’.

 画像の権利関係:Public Domain

2.ノルマン人の侵入。ヘイスティングスの戦い。(1066)(バイユー・タペストリーに描かれているもの)


出典:Wiki, Eng, ‘Battle of Hastings’

画像の権利関係:Public Domain

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